黒田清隆
概要 ①足跡を辿ろう ②言葉にふれよう ③生き方から学ぼう さらに学ぼう

黒田清隆(くろだきよたか) 1840(天保11)年~1900(明治33)年
江戸・明治時代の武士、軍人、政治家。薩摩国(鹿児島県)で薩摩藩の下級武士の長男として生まれた。剣術、砲術の名手で薩英戦争に参加、また西郷隆盛の使者として長州へ赴き、桂小五郎(木戸孝允)を説得して薩長同盟の成立に寄与した。
戊辰戦争では寛容な姿勢を貫き、庄内藩主の助命に奔走、この賢明な姿に庄内藩は降伏し、完全に恭順した。
五稜郭の戦いでも敵将・榎本武揚を説得して降伏させた後、自ら頭を丸めて有能な榎本らの助命に奔走したことから武人のかがみと称えられた。榎本とは生涯にわたって無二の親友となり、親戚関係を結んだ。
ロシアの脅威に備えるため北海道開拓の必要性を訴え続け、札幌農学校を設立(当時としては珍しい女子教育機関も併設)、屯田兵制度を導入し、開拓使長官に就任して北海道開発、諸産業発展の基盤を築いた。
西南戦争では征討参軍として従軍、兄と慕う西郷隆盛と戦うこととなった。
征韓論、台湾出兵には反対の立場をとり、江華島事件の際は特命全権大使として交渉、戦争を回避して日朝修好条規を締結した。
1878(明治11)年、大久保利通が暗殺されると薩摩藩閥の最有力者となったが、3年後開拓使官有物払下げ事件が起き、開拓使長官を辞任。
1888(明治21)年、第2代首相に就任し、翌年大日本帝国憲法を発布、直後に「政府は議会・政党の意志に制約されない」とする超然主義を表明した。
首相辞任後も元老として影響力を持ち、逓信大臣、枢密院議長などを歴任、1900(明治33)年、脳出血のため死去。享年59。
①黒田清隆の足跡をたどろう →TOP
『黒田清隆 人こそ宝』 鹿児島県教育委員会
黒田清隆は敵軍に対し、誠意を尽くして降伏を促しました。清隆はなぜそのような行動に出たのでしょうか。西郷隆盛が清隆にかけた言葉も心に残ります。
『黒田清隆 日本史辞典』 ホームメイト(刀剣ワールド)
たぐいまれな交渉力を持つ黒田清隆は、敵対する勢力との交渉でしばしば優れた能力を発揮しました。
『黒田清隆の最期と生涯』 レキシル
義理人情に厚かった黒田清隆の生涯とエピソード、また噂の真相も解説。
②黒田清隆の言葉にふれよう →TOP
「名言との対話」 黒田清隆』 Note
襲撃されて片足を失った政敵・大隈重信に黒田清隆がかけた言葉とは…。黒田の度量の大きさ、誠実な人柄が感じられます。
③黒田清隆の生き方から学ぼう →TOP
■『超優秀な幕末の傑物「榎本武揚」と熱き友情!立場を超えて榎本の助命に動いた黒田清隆と福沢諭吉』 おもしろ歴史博物館(15分)
敵将・榎本武揚を傑物と見た黒田清隆は榎本の助命に奔走、「榎本を殺すなら自分は政府をやめて坊主になる」と西郷を脅します。「武士は武士を知る」。二人の熱い友情は生涯変わりませんでした。
さらに学ぼう →TOP
■『戊辰の戦争終結 新選組 土方歳三の死と総督 黒田清隆の友情秘話 箱館戦争 新政府軍VS旧幕府軍の戦いの結末「幕末シリーズ10」』なるほど! 歴史ミステリー(23分)
黒田清隆は五稜郭にたてこもった旧幕臣を殺すのは国家の損失と考え、命がけで助命します。助けられた人々はその後、日本のため大きな貢献を成し遂げました。
■『北海道開拓の恩人 開拓使長官黒田清隆の生涯と業績』 北海道マサチューセッツ協会「HOMAS」
黒田清隆は北海道の開発に尽力してその発展の基礎を築き、北海道開拓の恩人といわれています。
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