松平定信
松平定信(まつだいらさだのぶ) 1759(宝暦8)~1829(文政12)年
江戸時代中期の大名、老中。陸奥国白河藩の第3代藩主。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫。老中として寛政の改革を行い、農村政策・都市政策などを強力に推進した。人返しの法、棄捐令、物価引下げ令、石川島人足寄場の設置、七分積金令はその代表的な政策。寛政異学の禁で朱子学以外の儒学を禁じたり、幕府の政治を批判する内容の出版物を禁止した。この時期は、外国船がしきりに日本の近海に出没しロシアはしばしば紛争を起し、ラクスマンが根室に来航した。だが、定信は海防の必要を力説した林子平を処罰した。左松平定信自画像、鎮国守国神社所蔵。
①松平定信の足跡をたどろう
【江戸時代】185 松平定信と寛政の改革【日本史】YouTube高校
天明の大飢饉を見事に乗り切った定信は幕府の老中首座となり、寛政の改革を行います。貧民救済、棄捐令、寛政異学の禁、蝦夷地開発などを進めますが、突然解任されてしまいます。
8代将軍・吉宗の孫、松平定信の生涯 政敵・田沼意次に対抗心を燃やし、「寛政の改革」を行った老中首座 サライ
国の行く末を案じて次々と改革案を打ち出した定信ですが、緊縮財政や風紀の取り締まりによる厳しい政策で人々から非難を浴びてしまいます。
松平定信 刀剣ワールド
定信は、前老中・田沼意次が進めた商業を盛んにする政策への反対する政策を打ち出しました。また、幕末に江戸幕府が正式に開国する前に、松平定信によって日本は開国していた可能性がありました。
②松平定信の言葉にふれよう
白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき
Chinoma 日本人として覚えておきたいちからのある言葉
これは厳しい改革を実行した定信の改革に対して、以前の華やかな「田沼時代」が懐かしいと当時の民衆から生まれた狂歌です。松平定信が残した言葉ではありませんが、定信の時代がどのように考えられていたかを知るためのヒントになるでしょう。
③の生き方から学ぼう
松平定信は融通の利かない堅物だった?白河藩では手腕抜群でも寛政の改革で大失敗 武将ジャパン
白河藩時代の飢餓対策では素晴らしい功績を残した定信ですが、幕府の老中としての国内政策は決してうまくいったとは言えません。なぜなのでしょうか?
さらに学ぼう
南湖神社
福島県白河市の南湖公園内にある南湖神社は松平定信が御祭神です。
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