上杉謙信

上杉謙信(うえすぎ けんしん)
1530(享禄3)年~1578(天正6)年
戦国時代の武将・大名。越後国(新潟県)の守護・上杉家に仕える守護代・長尾為景(ためかげ)の四男として生まれた。幼名・虎千代。父の隠居により兄・晴景が家督を継ぎ、虎千代は林泉寺に入って7才から14才の少年期を過ごした。深い教養、学識と仏教への篤い信仰心はこの時期につちかわれた。
元服して長尾景虎を名乗り、病弱の兄にかわって家督を継いで越後守護代、翌年越後守護となった。32才で関東管領・上杉家を相続して上杉を名乗り、41才で謙信(法号)と称した。
謙信は武田信玄、織田信長などの強敵と戦いを重ねたが、その目的は私欲のためではなく、義を重んじての出兵であったといわれる。武田信玄と戦った有名な川中島の戦いも、信玄に領地を奪われた村上氏を救援するための戦いであった。
また、謀略のうずまく戦国の世にあって常にフェアな戦い方で勝利を重ね、軍神とも呼ばれた。敵対していた信玄が今川・北条氏によって塩を断たれ、窮地に陥った際、今川氏の手法を非難し、信玄に塩を送って窮地を救った逸話は特に有名で、ここから「敵に塩を送る」という故事が生まれた。
和歌、能楽、茶道、書などに通じ、戦国期は経済的に困窮していた朝廷に私財を送るなど、朝廷を篤く尊崇した。また毘沙門天を信仰して生涯未婚を貫くなど、様々な面において異色の戦国武将であった。春日山城で病死、享年49才。

①上杉謙信の足跡をたどろう

『上杉謙信 なぜ軍神と呼ばれたのか?最強武将の衝撃エピソード』(23分) 拙者の出番じゃ!

圧倒的勝率から軍神と呼ばれた上杉謙信は、実は仏教に帰依し、世の平安を祈った武将でした。この矛盾に苦しんだ末、謙信がとった驚きの行動とは?
義に生きた謙信の魅力的な生涯を分かりやすく解説します。

『上杉謙信公とは? | 謙信公祭』  上越観光Navi

知略に富み、義を重んじた戦国武将・上杉謙信の人柄、エピソードを紹介。

『最強の武将といわれた上杉謙信。生涯や人物像について詳しく解説【親子で歴史を学ぶ】』 HugKum(はぐくむ)

上杉謙信の強さは若くして他国に広まり、謙信の助けを求めてくる武将が後をたちません。謙信は「弱きを助ける」ために戦い続けました。

②上杉謙信の言葉に触れよう

【上杉謙信】強さの秘密を逸話・エピソードで解説!世界史上最強か?』  歴史専門サイト「レキシル」

史上最強ともいわれる上杉謙信の戦いの経緯、その強さの理由を詳細に解説しています。

『上杉謙信の名言』  武士の和歌・名言

武田信玄の子・勝頼が長篠の戦で信長に敗れた際、武田への攻撃を進言する家臣に対し「人の落ち目を見て攻め取るのは本意ではない」と語り、攻め込みませんでした。常に正々堂々と戦うことが謙信の信条でした。

『上杉謙信の和歌』  武士の和歌・名言

近衛家から和歌の奥義を伝授されていた上杉謙信。『源氏物語』を愛読し、歌会では見事な恋歌を詠んで人々を驚かせました。

『上杉謙信の名言20選!仕事で使える有名な名言の意味を徹底解説』  ココアのマーチ

上杉謙信は仏教、特に毘沙門天を信仰していました。毘沙門天に国の平安を祈り、その祈りを成就するために贅沢や肉食を断ち、女性も近づけませんでした。

『【上杉謙信の名言】戦国武将・上杉謙信の生き様が伝わってくる至極の名言を紹介』 FUNDO

野望うずまく戦国時代、私利私欲のために戦わず、「義」を重んじた武将・上杉謙信。謙信は現代にも通じる名言を数多く残しています。

③上杉謙信の生き方から学ぼう

『上杉謙信とはどんな人?「実は女性だった説」や「性格」を徹底調査』  歴史専門サイト「レキシル」

謀略うずまく戦国時代、上杉謙信は領土拡大など私欲のためではなく、正義のために戦いました。宿敵の武田信玄や北条氏康も謙信の正義感を評価しています。

さらに学ぼう

『春日山城 上杉謙信が祈った毘沙門堂を見に行く』(16分) かいのすけ歴史

上杉謙信の生涯や戦い方、他の武将とは異なった生き方を分かりやすく解説。さらに謙信の拠点であった春日山城跡を実際に訪れ、謙信を偲んでいきます。

『上杉謙信公ゆかりの地めぐり』  上越観光Navi

上杉謙信を祭神としてまつる春日山神社、謙信公墓所や宝物館がある林泉寺(謙信が少年期を過ごした寺)、川中島合戦図屏風などを展示している春日山城跡ものがたり館などを紹介。

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