宮崎滔天

宮崎滔天(みやざきとうてん) 1871(明治4)~1922(大正11)年
  自由民権思想による革命を目指した近代日本の社会運動家。肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に生まれる。世界革命とその第一歩としての中国革命という考えに共感し、孫文や蒋介石などの中国人たちを支援した日本人志士の代表格。半生記『三十三年の夢』を出版し中国で抄訳として紹介された事で革命を志す者が孫文の元に集まるようになった。孫文の自伝には「革命の為に奔走して終始おこたらざりし者」 として宮崎の名が挙げられ、南京中国近代史遺址博物館の中庭に孫文と並んで銅像が建っている。

①孫文の足跡をたどろう

「孫文と宮崎滔天」  jiotv  

宮崎滔天と孫文の出会いから中国同盟会の結成、辛亥革命の成功までを解説しています。宮崎家の人々は孫文らを温かくもてなしました。

No.043 孫文と日本の志士達  国際派日本人養成講座

日本の明治維新をモデルにして近代的独立国家を作ろうとした孫文を宮崎滔天をはじめとした日本人志士たちが人生をかけ、命をかけて手助けします。

宮崎八郎・民蔵・彌蔵・滔天  熊本歴史・人物散歩 熊本高等学校パソコン同好会

日中友好を考えたとき、中国民衆のために生涯を捧げた滔天をはじめとした宮崎兄弟たちの功績を忘れることはできません。宮崎兄弟の生家と資料館の案内もあります。

②宮崎滔天の言葉にふれよう

熊本県荒尾市プロモーション映像 宮崎兄弟の生家編  荒尾市公式チャンネル

「理想は実行すべきものなり」「実行すべからざるものは夢想なり」―この滔天の言葉と孫文との友情について考えてみましょう。

③宮崎滔天の生き方から学ぼう

宮崎滔天と宮崎兄弟物語 中国革命に、人生を捧げた男たち ~宮崎兄弟と孫文の絆  まるごとあらお・荒尾市観光協会情報サイト

孫文を支え続けた宮崎滔天は「豪傑になれ、大将になれ」が口癖の父、「畳の上で死ぬのは男子にとって何よりの恥辱」と話す母に育てられ、貧乏のどん底にあっても孫文を助け続けました。

孫文と共に世界を変えようとした宮崎滔天 明治・大正を「世界的人間」として生きる  情報・知識&オピニオン imidas

「世界的人間」という発想を持っていた滔天は「我が生れ故郷を愛する心は、取りも直さず我が熊本を愛する心であり、我が熊本を愛する心は、それが直に我が日本を愛するの心であり、はたまた世界を愛するの心でなければならぬ」と考えていました。

さらに学ぼう

宮崎兄弟の生家と資料館2011  宮崎兄弟の生家と資料館2011

1913年日本に亡命した孫文は神戸の地で歓迎の昼食会が開かれました。そこは孫文記念館となっています。

宮崎兄弟資料館

終始孫文を助けた宮崎滔天は熊本県荒尾市の出身で、宮崎兄弟資料館でその足跡を診ることができます。そこには孫文に関する豊富な資料・動画をみることができます。

宮崎滔天とあの俳優さんとの意外な繋がり  荒尾市

中国人革命家をかくまう宮崎家を監視する警察。ところが、刑事の北村利吉は宮崎家の貧乏を見かねていつも土産に茶の袋を持って来たと言います。そんな心温まるエピソードの北村刑事は俳優の北村和夫の祖父であり同じく俳優の北村有起哉の曾祖父なのです。

日中友好の懸け橋 宮崎滔天と早稲田に学んだ中国留学生  早稲田大学

早稲田大学は多くの中国人留学生を受け入れました。滔天も早稲田の学生だった時期があり、留学生たちと交流を深めています。

孫文と孫文支えた宮崎滔天 国境越えて共同報告書 荒尾とシンガポールの2顕彰施設  西日本新聞

日本とシンガポールが辛亥革命の重要な拠点となったとして孫文と宮崎滔天に関する共同報告書が発行されました。荒尾市の宮崎兄弟資料館とシンガポールの孫文顕彰施設「孫中山南洋紀念館・晩晴園」が作成しています。

熊本,政治家,明治,大正,AH

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA