聖武天皇

(しょうむてんのう)
701(大宝元)年 ~ 756(天平勝宝8)年
奈良時代、第45代天皇。父は文武天皇、母は藤原不比等の娘・宮子。
この時期藤原氏が台頭して他氏排斥を進め、長屋王の変、藤原広嗣の乱と政治の混乱が続いた。大地震などの災害が多発し、さらに天然痘の大流行によって人口の約3割が病死したとされる。そのため天皇は仏教に深く帰依して「鎮護国家」を祈り、国分寺・国分尼次建立の詔、大仏造立の詔を相次いで出され、東大寺建立を発願された。東大寺大仏の開眼法要を行った4年後、56才で崩御。
聖武天皇の皇后・光明皇后もまた仏教に帰依し、施薬院・悲田院を置いて病弱者や困窮者の救済に尽力された。
光明皇后が東大寺に奉献した聖武天皇の遺愛品は東大寺正倉院に伝えられている。
(は優秀感想文で参考にされた回数です)
①聖武天皇の足跡をたどろう
『聖武天皇と仏教』 NHK(約2分)
地震、飢饉、伝染病、これらの災いは国を任されている自らの責任と考えた聖武天皇は、仏の力によって国や国民を守っていこうとされました。
『聖武天皇』 奈良テレビ放送(約6分)
聖武天皇は皇子を失い、様々な災害や戦乱も起きますが、「責めは我一人にあり」として民衆の苦しみを受け止められました。
『聖武天皇の一生から奈良の大仏が作られた経緯を見る』YouTube高校(約7分)
聖武天皇の生涯と、遷都を繰り返された理由について諸説を紹介しています。
『聖武天皇(奈良時代) 日本の歴史を分かりやすく解説』日本の歴史.com
聖武天皇の生涯と当時の国内の様子を簡潔に説明しています。
②聖武天皇の言葉にふれよう
『聖武天皇のお言葉から』高森明勅 公式ブログ
(様々な災害が起きて人々が苦しんでいるのは)「私の不徳の致すところ」、「責任は私一人にある」など、自省の言葉が多く残されています。
4 『責任はすべて自分一人にある」と明言した天皇がいた』BOOKウォッチ
森本公誠(東大寺別当)著『東大寺のなりたち』(岩波新書)を紹介。著者は「天皇の言葉から、天皇が自らの権威づけのために東大寺や大仏をつくったのではなく、純粋に天地の安泰、民の救済を目的にしていたということが分かります」と述べています。
『聖武天皇の御歌』やまとうた 千人万首
万葉集に11首、新古今集などの勅撰集に8首の御歌が残されています。
③聖武天皇の生き方から学ぼう
『民とともに作った世界最大の大仏』国際派日本人養成講座(動画+読み物)
聖武天皇は「自分の志は天下の万民をもれなく救うこと、生きとし生けるものすべてが栄えてほしい、私は国民と共にこの大事業を成しとげたい」と大仏造営を決意し、光明皇后はライ病患者など困窮者の救済に尽力して、共に仏教の慈悲の行を実践しました。
さらに学ぼう
『正倉院の宝物』NHK for School(2分)
正倉院には、聖武天皇が愛用された碁盤、石などの遺品が大切に保存されています。

『大化の改新 ~ 公地公民と律令で幸福な国造りが進んだ』国際派日本人養成講座(動画+読み物)
奈良時代の繁栄の基盤は大化の改新にありました。豪族の土地人民私有の廃止、律令制定によって独立自営農民が生まれ、法治国家・文化国家の建設が進みました。
『コロナ禍に思う(下)大仏建立の背景に天然痘猛威』 産経ニュース
天然痘の惨状を前に、当時の人々は救いを切望していました。大仏造営には、天然痘の犠牲になった人々への慰霊の意味もあったと思われます。
『次々と感染症に倒れた藤原氏 | 奈良時代のパンデミック…「大陸からの感染症」に次々と倒れた藤原氏一族』 奥田昌子(内科医)
天然痘の大流行の際に出された医術的通達は、当時としては最善の対処法でした。
『光明皇后の御歌』 千人万首
夫の聖武天皇を慕われる御歌など四首の御歌を解説しています。
奈良県 天皇 奈良時代 KY